四条大宮ワンデーパーク2024開催!

6年ぶりに開催! 四条大宮ワンデーパーク2024

【場所】
四条大宮駅前ロータリー

【日時】
1日目 2024年7月14日(日)  11:00~20:00
夜市  2024年7月14日(日)  21:00~26:00
2日目 2024年7月15日(月祝) 11:00~20:00

雨天決行・荒天中止

【出店(予定)ブースなど】

食の祭典・キッチンカー/ワークショップ/手づくり市
ふわふわ遊具/動く恐竜登場
ミュージックライブ 1日 1~2組程
TAIKO-LAB京都さんによる和太鼓体験、和太鼓ショー(14日)

※変更になる場合がございます。


四条大宮で20年以上継続していた伝統あるお祭り「ワンデーパーク」がコロナ期間を経て、6年ぶりに復活いたします。
祇園祭の宵々山に合わせて、四条大宮にもぜひ足をお運びください。

多くのご来場、お待ちしております!

「四条大宮の人」第5回目のインタビューは、現在四条大宮エリアで3店舗、計4店の飲食店を営んでおられる3BacksJapan合同会社の代表 三浦崇さんにお話を伺いました。

四条大宮との出会い

――独立して最初のお店「イタリアンバル Treotto(トレオット)」を、10年前に四条大宮で始められたのですね

前職でイタリア料理店に勤務していました。自分自身の裁量でもっと色々なことが試してみたいと思い、独立を決心しました。実家が阪急沿線だったので何となく阪急の駅近がいいなと思いつつ、店の候補地を探していたところ、四条大宮にたまたま空きテナントを見つけました。立地条件が良いのはもちろん、飲食店の前に不動産業に携わっていた自分の勘も「◎」と告げていました。また、お向かいに餃子の王将1号店があり「この場所からスタートして、あんなに大きくなられたんだ!」という活力がもらえるという理由もあって、こちらに決めました。

――四条大宮商店街振興組合に入られたきっかけは?

「四条大宮ワンデーパーク※」への出店がきっかけです。組合の方から「出てみませんか?」と誘っていただきました。周辺の飲食店さんも、皆さん出店されていました。そのお祭りが加盟したきっかけですね。

※四条大宮ワンデーパーク:毎年祇園祭の宵々山に合わせて四条大宮駅前ロータリーで行われるイベント

――開業した頃のエピソードはありますか?

開業準備の際、200キロ以上あるピザ窯を2階の店まで運ぶのが大変でした。直火で焼くピザがやっぱり美味しいと、こだわって選んだガス式のピザ窯です。階段を使うしか方法がないのでスタッフと2人で30分ほどかけ、やっとの思いで運び上げたことを覚えています。
開店すると間もなく、近隣の飲食店オーナーさん含め四条大宮界隈のお店の常連の方々がご来店くださいました。こちらから挨拶に伺ったわけでもないのに歓迎していただき、「ありがたいなぁ」と思いました。オープン当初は、来られた方の顔やお名前がわからなかったのですが、お客さんから「あの方は●●のオーナーさんですよ」などと教えていただいたり、休みの日に誘っていただいたりして知り合いも増え、四条大宮に馴染んでいくことができました。

人との「縁」で、今がある

――イタリア料理のほかにラーメン店やピアノバーなどを経営されているんですね

両方とも「ご縁」から始まったんです。まず「らぁ麺 櫻井」ですが、あの場所は元々「まん太郎」というお蕎麦屋さんで、よく食べに行っていたこともあって顔馴染みになり、仲良くさせていただいていたんです。ご年配のオーナーさんだったのですが、ある日「三浦さん。この店、やってくれへんかな?」と冗談みたいに言われまして、あまり本気にはしてなかったのですが、その後「この前の話、もうちょっと詳しくさせてくれる?」と電話があり、「本気やったんか!」と(笑)。で、結局「二代目萬太郎」として引き継いだのですが、その後業態を変えて、今はラーメン屋として営業しています。ピアノバー(シンシアズ ピアノ&パブ)も、トレオットのお隣で30数年ジャズバーをされていたオーナーさんから「引き継いでくれへん?」と言われて始めました。2店共、向こうからお声がかからなかったら、してなかったでしょうね。

――今のお話を聞くまでは、多角経営を目指しておられるという印象でした

最初はイタリアンの店をどんどん展開したいなという気持ちがありました。ですが、お話をいただいて「私を信用してくれた、買ってもらった」という気持ちと、この四条大宮で続けてこられたことを失いたくないという思いが合わさったといいますか……。ジャズバーとかピアノバーなどは自分にとって馴染みがなかったのですが、元々お隣の店でピアノを習っていたスタッフの力もあり、継続できています。スタッフと言えば、私が「ラーメン店始めたいなぁ」と思っていた頃、偶然3年ぶりくらいに昔の常連さんに連絡をとったら「ラーメン屋になりたいと思ってて、今の仕事辞めようと思ってます」と聞いて驚き、採用したのが「らぁ麺 櫻井」の店長なんです。タイミングというか、つながりというか、人の縁がなかったら今の業態はなかったでしょうね。

――お店の他に、Pizzaアカデミーというピザスクールもされているのですね

あるとき、就労支援センターの方からやってみませんかと打診がありました。申し込みがあれば開催するという不定期開催ですが、継続しています。受講される方は、職業体験みたいな感じから本気で独立開業を考えておられる方までさまざまです。スクール受講者の中から何名か、飲食店を開業されておられます。あと、スクールではないですが、開業の相談を受けることも多いです。性分なのか、考え出すと楽しくなって、ついつい色んなアドバイスをしてしまいます。

人が温かい街・四条大宮

――四条大宮でお店を出されて10年、変化は感じておられますか?

いい意味で「変わらない」街だなと思います。ただ、インバウンドのお客さんが増えたという印象はあります。10年前には、ほとんど来店されることはなかったのではないでしょうか。今は3割ほどがインバウンドのお客様、という日もありますね。当店は元々留学生から社員になったスタッフもおりますので、接客に不安がなく助かっています。他のお客様は近所にお住まいの方や近隣でお仕事をされている方がほとんどで、飲食店をされている方々も休みの日に飲みに行かれるのは「四条大宮」周辺だそうです。私自身もこの界隈で飲むのが好きで(笑)。もう10年いますが、行ってみたくてまだ行けてない店があります。

――四条大宮の魅力って、何だと思われますか?

昔ながらの下町情緒と人情味があることだと思います。地元に根付いた個性的な飲食店が多く、お店の人とお客さんが一体となって楽しめる雰囲気がいいですね。あとは、長い歴史のあるお店の皆さんが、新しく入ったお店(人)を温かく歓迎してくださるところも魅力です。組合の会合などでも気さくに声をかけていただけますし、お客さんとして店に来てくださったり、本当に良くしてもらっています。そういう土地柄が、たくさんの人を惹きつけるのかなと感じています。

――今後四条大宮でやってみたいことはありますか?

地域活性案として、四条大宮駅前ロータリーで屋台村ができたらな、と考えています。博多みたいな屋台村で四条大宮を盛り上げたいです。キッチンカーなら、出店条件をクリアできるのではと考え、今年中に一台制作してみようと構想中です。事例として組合の皆さんにも見ていただきたき、いずれ屋台村が実現できたら嬉しいです。

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当社は、食を通じてお客様に楽しんでいただけることと、食の安心安全を追求し、料理・サービス共にスタッフ一同が日々精進しております。自家栽培の新鮮な野菜も、ぜひ味わってみてください。 各店舗に外国人スタッフや留学経験者が在籍しておりますので、インバウンドのお客様への対応もおまかせください!

「四条大宮の人」第4回目のインタビューは、現在本商店街の一番東にてワイン専門店を営んでおられる株式会社ワイングロッサリーの代表取締役 吉田真紀子(まさきこ)さんにお話を伺いました。

明治時代からずっと同じ場所で

――創業は150年近く前なんですね

まだ明治時代の1877年、私の先祖が食料品店として創業しました。そこから数えると147年ほど経過したことになります。1975年からワイン専門店のワイングロッサリーとなり、1982年に株式会社化してから数えると、私が3代目となります。
ワインの専門店にしたときも、最初の事業が食料品店でしたので、「食料品」の英語「グロッサリー」の言葉を残した店舗名になりました。
創業時の店舗は、現在の四条堀川交差点の真ん中あたりにあったと聞いています。戦時中、本土決戦に備えた道路拡張のために、国からの要請で別の場所に転居、その後またすぐに引っ越しをして今の場所となったそうです。元々は町家作りだったので奥に細長いのですが、私の幼少期にビルに建て替えています。(店舗のある)この場所が実家でもあるので、生まれたときから四条大宮に住んでいます!

――食料品店からワイン専門店に切り替えられた理由はなんでしょうか?

100年近く食料品店として営んできましたが、1970年代に入って私の父と母が『これから食べ物も洋服も文化も、生活様式は欧米化するだろう』という考えがあったようです。当時はホテルや高級レストランなどの一部でしかワインが提供されておらず、どこでも気軽にワインが手に入る時代ではなかったところに目をつけて、「これからワインだ」と思い、ワイン専門店へと舵を切ったと聞いています。
現在は取り扱っていませんが、当初はコーヒー豆をそのまま置いて、その場でローストと挽きも行って販売したり、親戚が輸入食料品店をやっていたため仕入れたクッキーなども最初は並べて試行錯誤していたようです。
40年程前は、昔ながらの酒屋さんがご近所にたくさんあり、またワインよりもウイスキーの方がメジャーな印象がある時代で、販売していくには大変だったようです。また会社を創立して10年程で父が亡くなり、その後は母が1人で苦労しながら経営を切り盛りしていました。ただ、会社創立前から一緒に経営を手伝ってくれていた叔父(ワイングロッサリーの顧問、四条大宮商店街振興組合の元専務理事でもある太田氏)の支えもあり、これまで経営を続けて来れました。

――なぜ、家業を継ぐことになったのですか?

最初は家業を継ぐなんて全く考えていなかったし、両親もそういったことを私には一切口にしませんでした。母は、父が亡くなってからひとりで商売していくのも大変だったので、もう自分の代で終わろうと考えていたようです。けれども、たまたま私が仕事を手伝う機会があり、その際にこの仕事の楽しさを多少感じてしまいした。
また、小さい頃から食べることが好きな食いしん坊(笑)だったこともあり、食に興味が深まり、大学では栄養学を専攻し、将来は飲食関係の仕事をしたいなと考えていたところ、「この仕事をすると美味しいものを食べられるよ♡」という母の一言に釣られました(笑)。
しばらくは母も手伝ってくれていましたが今は引退し、私が12年前に事業を引き継ぎました。

――イベントなども頻繁に開催されていますね

15年前から始めた「京都ワインフェスティバル」は、当社主催の年1回4月開催の恒例イベントです。新型コロナウイルス感染時期の2年程は開催できませんでしたが、今年は13回目の開催ができました。
左京区の関西日仏学館のお庭をお借りして、約15ブースでワイン150種ほどを提供し、業務で交流のある飲食店さんにも出展していただき、会場でワインを飲んだり料理を食べたりしながら、ワインの購入をしていただいております。同じ四条大宮でご贔屓にしていただいているお店には、第一回目から出店していただいております。
会場のお庭はとても素敵で、今年は全国的に桜が遅咲きで、タイミングよく満開となり、天候にも恵まれ、お客様には大変お喜びいただけました。
毎年イベント日が近づくにつれ天気が気になるばかりですが、今まで雨が降ったことがありません!今年もお客さまに「晴れ女!」と声を掛けられました(笑)。

他にも、店舗近くのイベントスペースでは、ワインの初級者から上級者向けの各種教室やイベントを行っています。また、世界のトップ生産者さんを招いてレストランにてディナー会を開催したりセミナーも行っております。

四条大宮は住みやすい街

――生まれたときから四条大宮にお住まいとのことですが、なにか変化は感じられますか?

知り合いに「四条大宮のイメージは?」と尋ねると、皆さんが「餃子の王将」の1号店の存在を言ってくれます(笑)。子供の頃には、現在の店舗ビルになる前のお店もよく行っていましたね。町並み自体は、私が小さい頃とは大きな変化はない気がします。
今は特急以上のクラスが停車しなくなってしまいましたが、私が生まれる前は阪急の終点だったこともあり、今以上に雑居ビルが多く、小さい飲食店がひしめき合い、多くの人で賑わっていたと聞いています。

近年では、コロナが明けてからホテルや民泊も再開したこともあり、また若い方が新しくオープンされる飲食店が増えてきているので、最近は段々と活気付いてる感じがします。今も四条大宮に住んでいることもあり、新しくできた飲食店にはよく足を運びますよ。

また私が子供の頃には、映画館があったので、よく見に行っていましたね。「僕らの7日間戦争」を大宮東映で見たことを覚えいています。複数あった映画館も今は全てなくなってしまったし、最近はお花屋さんや本屋さんもなくなったので、ちょっと残念です。様々な文化を感じられる施設や生活を彩るお店が復活してくれれば嬉しいですね。あと、ケーキ屋さんやパン屋さんも(笑)!!

――四条大宮の住み心地はどうですか?

弊社に就職後、四条大宮に引っ越してくるスタッフも多いですし、このエリアに永く住まわれている方もたくさん存じ上げているので、治安が良く安心感もあるので、住みやすい街であると感じています。
店舗の近辺をいつも大きな袋を拾ったゴミでいっぱいにしてお掃除してくださっている女性がいらしゃって、気になって声を掛けてお話したところ、この近所にお住いの方で、街をきれいにしたいという気持ちで自主的にお掃除してくださっているとのことでした。とても素晴らしい行いであると感銘を受けるとともに、四条大宮はそういった方たちの思いや活動で守られているからこそ、住みやすい街なのだと感じました。
もちろん、商店街の活動もその一環だと思っています。

住み心地とは違いますが、交通が便利だと京都はもちろん、その他エリアのお客さまにもご来店いただくことも多く、また壬生寺や二条城など観光名所にも近いので、観光目的の方にもお立ち寄りいただいています。

ハレの日にはいつもご利用いただけるように

――これからの四条大宮とお店との結びつきについてお話をお聞かせください

これまで弊社は、ワイン愛好家向け専門店という比重が大きかったのですが、商店街の活動に関わる中で、もっと地元の方にも気軽にご来店いただけるようになれればと感じています。
金曜日と土曜日に無料の試飲サービスをしているので、ちょっと遊びに来ていただく感覚で夕食のメニューに合うワインのご相談いただいたり、ハレの日や記念日などの特別な日には、いつもワイングロッサリーの存在を最初に思い出していただけるようになれば嬉しいですし、ワインを通じて地域の方々とより交流を深めたいと思っています。

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世界的なトップ生産者の高価格帯なワインから、デイリーなワインまでを販売しています。
一般の方への販売と、飲食店様への卸をしています。
特別な1本でも、今日の夕食に合わせる1本でも、何でもお尋ねください。知識豊富なソムリエがショップでお待ちしています。
また、オンラインショップでは、実店舗と同じ品揃えを扱っています。よろしければ一度御覧ください。

「四条大宮の人」第3回目のインタビューは、終戦直後に開業され3代にわたり経営されていらっしゃる「喫茶ハットリー」の服部久子さんにお話を伺いました。

きっかけは戦時中に出会ったコーヒー

――現在3代目になると伺いましたが

終戦2年後の1947年が創業で、創業者は祖父の弟さん(大叔父)です。

その大叔父が戦地でコーヒーを飲み、「こんな美味しいもんを、みんな飲んでるんや!」とその味に衝撃を受けたらしく、終戦後帰国し、もともとの住まいだったこの土地で、当時の状況では仕事がなかったこともあり、コーヒー屋を始めたそうです。日本ではコーヒーが飲める喫茶店もまだ少なかったこともあり、これを仕事としてやっていけるのではと感じ開店したと聞いています。

その後、私の父が20歳の時に大叔父にお願いをして、2代目として店を引き継ぐことになりました。祖父が若くしてなくなったため、小さい兄弟を育てていくための生計をたてるためだったと聞いています。
1代目の大叔父は、代替りのタイミングで祇園にお店を出され、現在は修学院に移転し洋食店を経営されています。現在は、3代目として私と弟で経営しております。

――店名の由来はお名前でしょうか?

はい、名字です。
「ハットリー」という響きが、音がいいというか、覚えやすというか。お客様にそうお答えすると、結構笑ってくださいます。
ローマ字表記の場合は「Hattory」と最後は「y」になります。そのほうがバランスが良かったみたいです。

受け継がれるレシピ

――ハットリーさんのコーヒーの特長を教えてください

コーヒーは創業当初から変わらない方法で自家焙煎しブレンドしています。
以前は店の奥で焙煎していたのですが、煙がすごいので)。今は自宅で焙煎していますが、煙の量は変わりません(笑)。
コーヒー豆は、先代の頃とほぼ変わらないものを使用しているので、ありがたいことに長年ずっとお店に通って頂いているお客様も多いですね。豆の販売もしており、豆だけをご購入される方もいらっしゃいます。

――人気メニューはなんでしょうか?

モーニングは、断然トーストかたまごトースト。お昼の時間帯は、サラリーマンのご利用が多く、日替りランチとカレーライスが人気です。
カレーライスは、ずっとレシピを変えずカレー粉と小麦粉を炒ってイチから作っています。コーヒーと同じくらい定番の商品になっています。
最近では、若いお客様からサンドイッチをよくご注文頂いています。先代のときは1種類しかなかったのですが、3代目になってから6種類に増やしたところ、ブログやSNSで取り上げられることが多くなり、かなり人気も高いです。

――昭和レトロブームの影響もありますよね

私たちは、ただ古いだけだなと思っているんですけど(笑)、わざわざ調べて来店していただいています。
若いお客さまたちには珍しいようなのですが、グラスやカップ、ナプキンなどにロゴが入っているのをみて「可愛い〜っ」とおっしゃっていただいています。
女性のお客さまが多いですが、お一人やグループでこられて、クリームソーダかパフェかホットケーキを注文され、写真をいっぱい撮影していただいています。パフェメニューは、母が考案したものです。
そういったお客さまからの「このレンガの雰囲気がいいなぁ」「落ち着くよね〜」という声を聞くと、このままの姿が喜ばれていることを肌で感じています。

――大変歴史が長い経営をされていますが、客層に変化はありましたか?

先程のレトロブームの影響での新規のお客さまも増えましたが、間口も狭いため、中の様子も見えづらく入りにくかったり、通り過ぎてしまう方もいらっしゃいます。やはり、圧倒的に顔見知りの常連さまが殆どです。
コロナ前までは夜10時まで営業していました。現在は夜9時までに営業時間を変更しましたが、仕事終わりに立ち寄っていただく方もあります。ビールなどのお酒類やそのおつまみもあるので、ポツポツご注文いただいています。
有名人の方もよくご来店いただいているようなのですが、普段テレビを見ないので誰か分からないんです(笑)。ゆっくりしていただけるように、あえてお声は掛けないようにしています。
近隣にホテルが増えたこともあり、海外の観光客の方も立ち寄っていただくようになりました。

――お客さまとのエピソードがあれば教えてください

ご近所にお住まいの常連さまが、ほぼ毎日来店されていました。1日に何回も来ていただくことや、ときにはご家族数人で来られたりしていました。そのお客さまは亡くなられたのですが、その後もその方の命日にはご家族の方がご来店され、お供え物として当店のコーヒーをお持ち帰りいただいています。そういった形でも御縁を繋いでいただき、本当に有り難く感じております。

長年愛されるお店・街に

――かつての四条大宮はどんな感じでしたか?

開業当時は、阪急の大宮駅が終点で、あと嵐電と市電もあり、人も多く大変賑わっていたと聞いています。映画館やボーリング場もありましたが現在はなくなってしまい、その代わりではないですがマンションとホテルが増えたと感じています。

――商店街に加盟されて良かったことはありますか?

他店の方たちと知り合いになり、自分のお店と違う様々な商売のことを教えていただいたり、第三者から見たアドバイスがあったり、情報共有を兼ねて異文化交流ができることが良いですね。
親しくしていただいている方も増え、お店にも来てもらったりしています。

――これからの四条大宮に期待することはありますか?

『みんなが過ごしやすい便利な街。住みたい街ランキングに選ばれるような街』になって欲しいですね。 私たちのお店はその一役になれるよう、昔からある小ぢんまりしたお店でありながらも、ほっと一息つけて、それが毎日のルーティーンとなるような、お客様が気軽に立ち寄れるお店を常に心掛けています。

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自家焙煎コーヒーにこだわっています。そのコーヒーをゼリーにしてお出ししています。
常連のお客さまも初めてのお客さまにも、居心地の良い店内と味をご提供いたします。

「四条大宮の人」第2回目のインタビューは、四条大宮のシンボル的存在であるロータリーを望むビルにて『焼肉の大将軍』などを経営され、四条大宮商店街の副理事長を務めていらっしゃいます新井一樹さんに、お話を伺いました。

戦後からの復興〜パチンコから焼肉・サウナまで

――創業から70年以上と伺いました

創業者の父は、京大の法学部出身でしたので、法曹界に残りたかったと聞いていました。ただ、戦後の時代背景もあり、その願いは叶わなかったそうです。1952年(昭和27年)に四条大宮ではなく別の場所で事務所を開設し、それが創業となります。
戦後復興期を過ぎ、外貨も入ってきたことによって日本が少しずつ豊かになる中、「何かで楽しみたい」という人たちに向けてパチンコ店が増えてきたことに着目し、パチンコ店を開業しました。
両親からは、開業のために資金集めに奔走したと聞いていましたが、時代が良かったのか、その10年後に現在の場所へ店舗を移転し、1年後に焼肉店もオープンしています。
移転場所の候補として、河原町も上がったようですが、当時阪急電鉄の終点であった四条大宮のほうが盛況な雰囲気があったそうで、この地を選ぶ決め手となりました。右肩上がりの高度経済成長時代であった事や阪急駅前の利便性のおかげで集客に苦労しなくて済んだことが、功を奏し事業は発展しました。
今は残っていないですが、(現ビルの)南側には染物工場がありました。当社の窓から工場の屋根が覗き見え機織り機の音が良く聞こえてきました。織物関係の方が多かったように記憶しています。
幼少の頃は、ご近所の方々に仲良くして頂きました。勝手にお邪魔したり、晩ご飯まで食べて帰ったり…お世話になっていました(笑)。まさに、庶民の町というイメージでしたね。

――焼肉店も経営された経緯は?

父が、次に手掛けるビジネスとして焼肉店を選んだのは、母の実家が焼肉店を営んでおりノウハウを吸収しやすかったからです。ただ開業当時は、現在のように飲食業として焼肉が広く認知されていなかったので、父は中華料理のコックさんをヘッドハンティングし、開業当初のメニューは中華料理と焼肉料理が混在していました。
ノウハウを頂いた母の実家の焼肉店は無くなりましたが、その流れを汲む母の叔父が創業されたお店は今も営業されています。1〜2ヶ月に1回ペースで通っていますが、どうしても自分の店の味と比べてしまいます。(自分の店の味には)自信があるんですが、このお店のハラミは美味しすぎて毎回悔しい気持ちになります。(笑)

――大将軍といえば「サウナ」というイメージの方も多いと思います

そうなんです、閉業したのは本当に残念なんですけど・・・。

サウナを開業したのも、サウナ好き、マッサージ好きであった父のアイデアです。

昭和42年に現在のビルが建ちサウナをオープンしています。開業してから盛況でしばらくは、ロッカーが全然足らないという時期もありました。お客様の待ちが出て、次のロッカーが空くまで靴を脱いでロビーのソファで座って待っていたりとか、すごい時代でした。
昭和の終わり頃までは、接待に利用される方が非常に多かったことも印象的でした。ビルに到着5階の受付〜7階サウナ〜8階マッサージ、それから下の階で焼肉。それからタクシーでそのまま祇園に向かうという、それはもう接待のゴールデンコースでした(笑)。当時は、設備や人材などのコストを気にせずに営業出来る時代だったようですね。
バブルがはじけて以降、設備の老朽化に伴うメンテナンスに関しては、そのコストを抑えながらの運営に苦労しました。マッサージのスタッフはベテランの方が多く、施術の評判も良かったので、皆さんの生活を守るためなんとか工夫して経営をしてきました。客数、売り上げの激減により事業存続が困難な状況が見えてきたため、スタッフの方々の引受先も決まった上で、閉業することにしました。

現在、設備はそのまま残ったままで配管関係の定期的なメンテナンスは行っています。
大浴場の階は、防水を頑丈にしていたので、「四条大宮の7階で水耕栽培して野菜作りをするのもいいな」なんて言うてたんですけど(笑)
近年はサウナブームなので、あのまま続けていたら、結構面白かったのかなとは思いますけどね。。。

会社経営と医者の二足のわらじ

――お医者さまと伺いましたが、現在のお仕事をするきっかけはなんでしょうか?

私が高校生の頃、父から「商売は水ものだし、息子だからというだけで家業を引き継がせるなんて、そんな無茶なことはできない。自分の力で生きていきなさい」と言われました。加えて「将来のために何か資格があるほうがいい」ともアドバイスされ、たまたま姉が医学部に進学していたことも影響し、医学の道に進みました。大学院にも進学し大学の医局にいる期間が長かったこともあり、当時は一生医者として頑張ろうと考えていました。
博士号を取ってしばらくして、父や会社の専務から事業承継の猛プッシュがありました。最初は断っていたのですが、専務が高齢となり申し送りのリミットが迫っていることも感じていたため、覚悟を決めて平成3年8月に入社しました。

「自分の力で生きていきなさい」と言われ医者として医療に従事してきましたが、入社してから「サービス業にもホスピタリティが必要!」と感じ、医療にも不可欠なホスピタリティという共通項があれば自分でもやっていけるのではと思いました(笑)

――入社のタイミングで病院は退職されたのですか?

入社の条件として医者を続けさせてほしいと伝えていました。病院側も人手が足りず、双方が望む形になったこともあり、当時は週1日程度で勤務し他の先生方の手術の介助についたりしていました。現在は、病院に行く回数も随分減りましたが、医者としての仕事は続いています。

昭和の風情が残る街・四条大宮

――四条大宮の魅力はなんでしょうか?

昔は昭和そのもので、縄暖簾のかかった居酒屋や駄菓子屋のある庶民の町でした。
現在は、大きなマンションやホテルが立ち並び、都会的な雰囲気に変わってきましたが、四条通りから一歩足を踏み入れると昭和の香りが残るお店もあり、若い世代がオーナーの飲食店や老舗出身のオーナーの料理店、個性的な物販店なども増え活気のある多面的な街になってきたと思います。
四条大宮のホテルに宿泊される観光客の方にも、ぜひ四条大宮の魅力に触れてほしいと願っています。ホテルから出て、バスや電車に乗らなくても、徒歩圏内で飲食も娯楽も楽しめる。四条大宮の街全体を活性化するという意味でも、商店街として宿泊施設や飲食店との協力や連携を深めていきたいと考えています。

――魅力をもっと高めるために期待することは?

先ずは、阪急電鉄の特急が再び(四条)大宮駅に停車することですね。
乗降者数の増加はもちろん大事ですが、その方々も含め色々な方々に滞留して頂ける町にならなければなりません。そのためには、商店街のメンバー自らが研鑽を重ねる事で魅力的で活気溢れるお店を創り上げていく必要がありますし、そんなお店がひしめき合う四条大宮になるよう努めていくことが大事だと思います。
路線価の上昇から高級マンションも建つようになり、町のイメージも益々洒落た感じになっていく事でしょう。それでいながら昭和の香りの残る、温かい触れ合いの町、地元の方々に愛される町として発展していくことを望みます。

――ご自身のお店や会社への「夢」はありますか?

焼肉に関しては、昭和から現在まで積み重ねてきた60年余りの歴史やレシピを当社の宝として大事に受け継ぎながら、それが四条大宮ならではの食文化に少しでも役立てばいいなと考えています。
私も、焼肉が好きなので、あの店(前述のお店)のハラミの味を超えたいと思います(笑)

商店街としての活動

――本商店街での「善き出会い」についてお聞かせください

出会いといえば、「いっさん」こと石田理事長に尽きます。強烈なキャラと個性、聡明でいて、かつ可愛い面もある魅力的な人物で、誰よりも四条大宮を愛している方だと思います。

私が入社間もない頃、石田理事長(当時は副理事長)が商店街加入の直談判するために自宅に来られ、父に熱弁をふるわれました。「ぜひ、一緒に四条大宮を盛り上げていきましょう!」と言われたのが商店街に関わるきっかけとなりました。
私は、その直前まで医者の仕事しかしていなかったので「the商売人」な出で立ちの石田理事長との出会いは強烈でした(笑)

父からは「お手伝いできることがあれば是非やった方がいい」と則され、理事になりました。当時、石田さんから「理事として四条大宮のために一緒に頑張りましょう」と言われましたが、あれから30年以上、理事として一緒に過ごすことが出来たこのご縁に心から感謝しています。

ご縁といえば、太田理事のお店「ワイングロッサリー」さんとも、40年近いお付き合いになります。太田理事は、商工会議所青年部でも一緒に活動してきた戦友でもあります。
吉岡理事のお店「モリタ屋」さんは、当店に食材を提供して下さる大事な取り引き先でもあります。
商店街の役員として活動してきた中、お陰様で2022年3月22日に開催された京都商店連盟75周年にて、太田理事、吉岡理事と共に京都市長表彰受章を授かることも出来ました。

今でもこのメンバーで集うと商店街の話で盛り上がることが多いです。善き出会いに乾杯!

もちろん当店に至っては、長きにわたってご愛顧頂いているお客様やご家族で来て下さる皆様、新たに出会えたお客様、そして小中高、大学の同窓生、病院の仕事仲間、商工会議所青年部メンバー、内外からの旅行者などの皆様にご来店頂いています。
お客様、営業を支えて下さる業者の方々、当店のスタッフ、多くの方々との善き出会いに、只々感謝しかありません。

――店街の活動についてもお聞かせください

四条大宮まちづくり景観協定が「市街地景観整備条例」の適用になったのは商店街連盟の中で我が商店街が初めてでした。新しい建造物が建つ際は、事前説明を行って頂き、街の色合いなど街並みとしての統一感を図るようにお願いしています。
その中でも、電線の地中化や歩道の整備が出来たのは、商店街のメンバーの尽力によるものです。特に石田理事長が奔走され実現にこぎつけたことを、地元の殆どの方はご存知ありません。
商店街の加入会員全員で四条大宮のソフト・ハードを含めて、よりよい街として発展させるための整理・整備を継続していきたいと思います。

――最後にメッセージをお願いします。

昭和の時代が香る店舗がある一方で、おしゃれで先進的なホテルも建つ四条大宮には、店舗によって規模や業態が違いながらも、「お互いを認め尊重し合う=ダイバーシティ」という考えが、昔から根付いている街なのではと感じます。
ダイバーシティの時代といわれる中、多種多様なお店のある四条大宮は正に時代のニーズに合った商店街だと思っています。

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弊社は昭和27年創業、昭和37年に四条大宮に開業しました。同年に喫茶シャトー、翌年に天下の焼肉大将軍を開業、飲食店として62年になります。
「元気と笑顔が溢れるお店、地域にそしてお客様に愛されるお店、 地域にそしてお客様になくてはならないお店、これが私たちの目指すお店です。」
弊社の1日はこの経営理念の唱和から始まります。

三条千本の「黄色い建物」と言えば当店=卸売ひろばタカギ三条店のこと!
お店に入るとまず目に入って来るのが当店自慢の「宝島コーナー」
半額商品当たり前、中には7割引を超えるお値打ち品も登場する見逃せない売り場です。スーパーなどの定番外れ商品や賞味期限間近の商品など毎日全国から続々入荷中!毎日チェックしていると思わぬお値打ち品に出会えますよ!

お祭りや地蔵盆などのイベントごとにぴったりのお菓子詰め合わせ、大会の参加賞などの景品も多数そろえております。まとめ買い大歓迎です! 四条大宮から徒歩10分 壬生にて60年
印刷物全般(書籍からポスター、名刺など)からWebサイト・システムまで
幅広い制作をおこなっています。

長年培ったノウハウを活かし
お客様のビジネスの広報・集客をお手伝いします。

飲食・物販・イベント・通販など
皆さまのチャレンジをサポートし、
成功につなげるお役立ち企業として、地域に根ざしたサービスを展開しています。

お気軽にご相談をお待ちしています。

「四条大宮の人」第1回目のインタビューは、四条大宮に生まれ育ち、この地で商売も経験され、現在は税理士業のかたわら四条大宮商店街の理事長を務められている石田哲雄さんに、四条大宮の過去・現在・未来について、お話を伺いました。

生粋の四条大宮人

――四条大宮のご出身と伺いました

生まれも育ちも、四条大宮。マヤ幼稚園(現在廃園)、乾小学校(現洛中小学校)、中京中学、堀川高校という、中京のエリートコースを通った生粋の四条大宮人です(笑)。
この地で両親も商いを営み、私自身も商売を経験させてもらい、現在は商店街の理事長に就かせていただいています。心から、四条大宮に感謝しています。

かつて四条大宮は「京都の新宿」だった

――四条大宮商店街の昔の姿についてお聞かせください

戦後の四条大宮は、阪急電鉄京都行きの終点であり、特急が止まっていました。しかも駅の名称は「京都駅」。相当な賑わいがありました。当時、人が多く集まる交通の要衝となる街は、みんな『東京の新宿のようになりたい』という強い思いがあったのではないでしょうか。
現在の商店街の前身となる団体が、昭和20年の後半から30年代前半にかけて四条大宮地域で活動されていました。四条大宮は「京都の新宿」と呼ばれていたこともあってか、その団体名は『京都新宿会』でした。現存している店舗は数店ですが、ありがたいことに現在も加盟していただいている状況です。
また、かつての賑わいを少しでも取り戻そうと、阪急電鉄さんに対し「四条大宮に再び特急を」と訴え続けているのですが、残念ながら実現は難しいようです。訴え続けるつもりではおりますが(笑)。

昭和30年代の四条大宮

魅力が多い街、四条大宮

戦後の賑わいもあってか、四条大宮には安くて美味しい・気軽に入れるという飲食店が多く存在し、その雰囲気が今も随所に漂っています。今で言う『B級グルメ』の種類が多い街かもしれないですね。
新選組ゆかりの地であることは有名ですが、信長・秀吉の時代に西洋建築があったりキリスト教の布教活動が行われていたりと歴史的にも興味深い土地でもあります。
もともとこの地の農産物であった京壬生菜は、商店街に加盟されている川勝總本家さんにて漬物として商品開発し、現在名産品として販売し地域活性化につなげたいと計画しています。

――ロータリーの存在とワンデーパークについて、教えていただけますか

四条大宮のロータリーは、戦時中に空襲での火災が発生した際に広がらないようにするための防火帯として作り進められました。当時は、東西にあの幅で、五条通りまで防火帯を作る計画だったようですが、建物を潰し始めたところ、その1週間後に終戦となってしまい、その計画が終了となったそうです。
バブルの時期には、オフィスビルの建設を行政に働きかけてみようかと思案していたのですが、今はあの空間があるから四条大宮という存在が広く見えてると感じています。四条通りを東から、河原町・烏丸・大宮・西院と通っても、この中で広い空間と開放感があるのは四条大宮だけ。
けれども、ロータリーや駐車場として利用されるだけではもったいない、なんとか人の賑わいを取り戻すことができないかと考えました。
昔、学生時代にイギリス留学した際に存在を知った、ハイド・パークのスピーカーズ・コーナー※のような公園にしてもらって、人が集まる自由で活発な場所として利用価値を高めたほうがいいのではと考え、その思いを込めて、毎年7月15日開催、25年間継続している「ワンデーパーク」を始めました。
「(たった)1日だけ(でも、取り戻す)公園」という意味ですが、本当は365日一年中人が集まり賑わう公園にしたいという思いを込めたネーミングでもあります。
祇園祭エリアの最西端の地区で、阪急をはじめ交通の要所でもありますので、祇園祭の際は四条大宮を出発点としてお祭りを楽しんでいただければと。

※ロンドンのハイド・パークの北東隅にあるものが有名な、さまざまな人が日々自説を論じる場所

四条大宮での出会い

――四条大宮での出会いに関するエピソードがあれば、ぜひお聞かせください

戦後、満州から引き上げてきた父親が、四条大宮で3坪ほどの小さな店舗で野菜販売を始めました。その後、どんどんと人が集まると同時に商売も拡大し、最終的には飲食業で100坪ほどあるお店となり、四条大宮を一世風靡しました。
ただ、私自身が17歳のときに父親が亡くなり、私と母親、弟と妹との家族となりました。当時まだ若い私は、税理士になることを志望しており、商社マンになる夢もありました。戦後を経験している私は、世界中の良いものを日本に、そして日本の良いものを世界に届けたいという思いが強かったので、商社マンとなり世界中を駆け巡ることが夢でした。けれども、父親がなくなったことで残った家族をどうやって養っていけば…と悩んでいるときに、四条大宮の『餃子の王将』さんの勢いが凄く、その当時から「セントラルキッチンの導入」を目指されているということを耳にしたので、初代社長の加藤さんに「物件を借りてくれませんか!」と直訴しに行ったんです。無謀にも若さゆえの行動でしょうか(笑)。
その後、現地まで加藤社長は足を運んでくださり、内見をしていただきました。その時、加藤社長がおっしゃった言葉は、「人に貸したらあかん、返ってきいひんぞ!」。言われたその時はショックでしたが、今思うと現代のような借地法や借家法など法整備がされていない時代、土地に関するトラブルも多かったことから、無知な若者に対してのありがたい注意喚起だったのではと思い出します。また、今や外食・レストラン大手となる企業代表の先見の明と人格・人徳を強く感じました。

わざわざ行きたい街 四条大宮に

――最後に、これからの四条大宮についての未来展望を伺ってもよろしいでしょうか?

私が生まれ育ちそして商売をした地であること、両親や地域の方々への感謝など、人生を振り返ったときに、私にとっては四条大宮で出会った人々も含めこのエリアが大きな存在であり、常に恩返しができればと考えています。

これまでお話してきたように、四条大宮は交通の要衝であり、ここを起点とし京都水族館、映画村、嵐山、祇園界隈へ、電車やバス1本で移動できます。また、近隣の観光名所である、壬生寺や新選組関連のスポット、二条城へも徒歩圏内です。
これだけだと、たまたま来ただけの通過点となってしまうのですが、四条大宮に滞在するためにわざわざ愛を運んでもらいたい。私は「たまたまショップからわざわざショップ」と題して、加盟企業やお店の方には必ずお伝えさせていただくことがあります。「わざわざ行きたい!」と思っていただける工夫を凝らしたお店を作ってくださいと。

商店街では、インフラの整備や防犯カメラなど、安心安全なまち作りの活動はこれからも継続して行いますが、私個人として何か恩返しできることはないかということも考えています。
兼ねてから四条大宮には会合する場所がないため、地域の活動をするための拠点が必要なんじゃないかなと。商店街活動はもとより、少年補導やPTAなど地域の方々をはじめ一般の方にも無料で開放し、多種多様な人々が集まり自由に使っていただけるバリアフリーな空間を提供できればなと。

「わざわざ行きたい街 四条大宮」。実はそこには、B級グルメを始めとする飲食店や、民泊やホテルのリーズナブルな宿泊施設が多く存在し、庶民的な街として発展しながらも、人が集まる理由がある、魅力と価値ある商店街にしていきたいという思いがあります。
それが実現する頃には、阪急大宮駅に特急が停車していることでしょうね(笑)。

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